前回の峨眉武術の門派について補足だけしておくと、全体的に見ると峨嵋派は南派拳術に属しており、足技より手技を多用する傾向にある。柔らかな身法と頭肩肘膝などを用いた接近戦も特徴と言える。シャーマニズムの影響からなのか動物などの動きを模した象形拳が多いのも特徴。
五花(青牛、青城、鉄佛、黄陵、点易の5つの地域もしくは流派)八葉(僧、趙、杜、岳、洪、慧(会)、字、化の8つの門派。四大家四小家と呼ぶ。)の門派や緑林派、余門拳などが長い歴史を持つ。
また鴨形拳のほか黄鱔拳(タウナギ拳)なども四川で生まれた珍しい武術だ。なお、この話のあとすぐにナニ陛下が「ナニ式タウナギ拳」を編み出したことも追記しておく。
さて一夜明けて8/18。今日は成都を離れ世界遺産の一つ楽山大仏のある楽山市に向かう。楽山市までは南に直線距離で130kmほど。
今日は日程に余裕もあり楽山までの途中で寄り道することになった。
眉山市の彭山区というところに入ると何やら見えてきた。



彭山とは「彭祖(ほうそ)」が亡くなって葬られたという彭祖山からついた地名だ。
「彭祖」は中国古代の仙人で800年生きたと言われている。食べ物を煮炊きすることを最初に始めたという話もあるので、料理人の祖とされる。
またその長寿と彭祖気功(内功)を作り出したことから、養生法や武術の鼻祖とも呼ばれる。房中術の祖でもあるらしい。
壁やモニュメントの絵は彭祖気功のポーズだった。この一帯は彭祖にあやかって健康長寿の街ということらしい。
しかし、我々の目的は彭祖ではなかった。いや彭祖山のすぐ近くではあるのだが目的地ではなかった。
それは明末に李自成らと同じく反乱を起こし、後に李自成とは袂を分かって四川に侵入し独立勢力を作り、さらには大西皇帝を名乗った張献忠にまつわるものだった。
張献忠は四川において数百万人を虐殺したとして悪名高い。このため古代からの四川の民族はほぼ全滅し、後の清の初め頃に湖北・湖南・広東などからの数百万人が四川へと移民が行われた。今の四川の言葉が西南官話とよばれる北方の方言に近いのはこのためだという。
大西国の大順帝を名乗っていた張献忠だが、わずか2年ほどでその天下は終わる。
陝西に進出しようと漢中を攻めるが清軍に連敗。四川各地で反乱も起こり、李自成を破った清軍に追い詰められ戦死する。
言い伝えでは、張献忠が四川中からかき集めた金銀財宝を敗走するときに多数の船に載せたが戦いの中で沈められ殆どの金銀が川の中に消えた…というが、それらしきものはこれまで発見されていなかった。
それが、ここ江口鎮の岷江と錦江がまじわるあたりで見つかったのだそうだ。
数年前から川で財宝らしきものが見つかり、盗掘などの問題もあり2016年から川をせき止めての発掘が始まった。(中国では土地は全て国のものなので、埋蔵物も全て国に帰属する。)
江口沉銀遺跡と呼ばれるこの遺跡からは、張献忠が大西で作らせたことが書かれている沉銀(馬蹄銀)や金錠(馬蹄金)、金印など3万点が見つかった。


残念ながら、現在は発掘も終わっており川のそばにも近づけないため、壁越しに覗き込むことしかできなかった。川底にナニ族グッズを埋めるミッションもこなせなかった。
せっかくなので江口鎮の昔ながらの古い町、というか村の通りを散策する。
今にも崩れそうな家も多いが、今も人が暮らしており、わずかながら店もあった。

のんびりとした雰囲気を味わった一行は、再びバスに乗り込み楽山へと向かう。
途中眉山のSAで休憩の後、楽山市に入り先に昼食をとる。














四川ということで激辛がたくさん出ると思っていたが、辛さは昨日の陳麻婆豆腐ほどのものはなく辛くない料理のほうが多いくらいだった。野菜も多くとても味が濃くて美味しい。四川でも田舎料理はこんな感じらしい。

お茶がそば茶っぽいけど微妙に違うようなので、中を覗いてみるとそばの実ではなく加工したものだった。
その後もそば茶は出たが普通にそばの実だったし、スーパーでもこの加工そば茶は発見できず、謎のお茶だった。
腹ごしらえも済み、いよいよ念願の楽山大仏と御対面だ!
続く
犬のお宝(ホネ)を取ったらダメですよ!
あー、だから吠えられていたのか…。