2017年09月19日

岡崎由美先生と行く四川武侠ツアー『3.嵐を呼ぶマーボー 麻と辣』

2017四川武侠ツアーマップ

さて今回の武侠ツアー旅日記のサブタイトルは、映画やドラマのタイトルなんかをもじったりしているわけですが、今回のは念のためにいうと「嵐を呼ぶ男」ではなく「嵐を呼ぶドラゴン/方世玉與洪熙官」のほうです。
次からはどうなるのかわかりませんw

素晴らしい岡崎先生の講義がすんで、ぼちぼち本場の麻婆豆腐を味わいたいところだったのですが、資料を作った手前、峨嵋武術の説明をすることになりました。
しかし、資料を作りながら思ったのは峨嵋武術の系譜があまりにも複雑で裾野が広く、どこまでを峨嵋派と呼んでいいのか、いやどこからが峨嵋派なのかも断言するまでにはいたらないほどで、四川の深山のごとく深すぎるという感覚でした。
でも、なんとかネタwにするべく無理やりまとめた資料で説明を始めた。

峨嵋派武術は武術三大流派とされながらも、少林寺や武当山などと比べて実態が掴みづらく謎に包まれているところが多い。そこで、峨嵋派の歴史や女流門派のイメージの由来などを考察していく。
峨嵋派のはじまり
・四川地方を巴蜀と呼ぶ。成都を中心とした一帯を蜀、重慶周辺の東寄りの地域を巴という。周の武王が殷の紂王を討つべく兵を挙げたおり、巴蜀は武王についた。完全武装の紂王軍にくらべ巴の軍は、頭に羽飾り、腰にシュロの葉を巻き、籠手や脛当ては竹という原始的なものだった。しかし、巴軍は恐れず「巴渝舞」を紂王軍の目前で舞い士気を高めたため、紂王軍はその勇気に感服して矛を置いた。一説には面白可笑しい舞に油断した隙きを突いて、指にはめた鋭い竹の爪だけで紂王軍に襲いかかり混乱させて勝利した、というものもある。舞踊から武術に変化する例は少なくない。
・春秋時代に入り峨嵋山に、中国史上初の武学宗師が現れる。司徒玄空、姓は白、名は士口,字を衣三、というが素性は不明。司徒玄空は、姓の白からか白衣を愛用していたからか"白猿祖師”"白猿公”と呼ばれた。司徒玄空は、山中の猿の動きから「峨嵋通臂拳」を編み出す。また「猿公剣法」を創始し、これが呉越春秋にある剣客・越女に伝わり「越女剣法」と呼ばれるようになる。間接的ではあるが、これが峨嵋山と女性武術家の最初の接点と言えよう。
峨嵋武術の変遷
・秦の恵文王が紀元前316年に巴蜀を併合する。巴蜀の地を穀倉地帯にすべく、多くの移民や道具技術が中原から持ち込まれた。この時、手搏(徒手格闘術)や歩兵の武器術なども伝わり、峨嵋武術の形成に影響を与える。
・後漢の末頃、峨嵋山に多くの道観が建てられ道教が盛んになる。神仙思想や彭祖由来の気功と道家の養生術が融合して「吐納,導引,坐忘,心斎,守一 」という練功法ができたという。
・この時代に四川・青城山で盛んになった道教は五斗米道である。五斗米道の2代目の張衡の死後、蜀では張修の鬼道教団が活発に活動するようになる。鬼道は卑弥呼が用いたとも言われるシャーマニズムのことだ。後に3代目である張魯が張修を殺し教団を乗っ取ったことで、五斗米道という道教にシャーマニズムが内包されることとなる。現在道教の二大教派のひとつである正一教は五斗米道から始まっている。もう一つは全真教だ。全真教の道士は出家して内丹など自己修養を重視するが、正一教は主に在家で祭儀を中心として呪符など呪術性が強いものを重視する。シャーマニズムが色濃く残っている証拠と言える。峨嵋山で盛んになったのは、シャーマニズム要素が強い道教と組み合わされたものだったのではないだろうか。
・劉備が蜀漢を建てて以後、中原に加え北方の民族や技術風習も持ち込まれるようになり、更なる変化をもたらしていく。
・南北朝の半ば頃、峨嵋山の道教各派は権力争いで三度大きな衝突があり、それをおさめるために太薬道長が"峨嵋剣仙派”を創立する。「峨嵋通臂拳」「越女剣法」と内功、養生術を修練し峨嵋派武術の原型が整いつつあった。
・かつて紂王軍の前で舞われた「巴渝舞」はまさにシャーマニズムであったが、「剣器舞」「斗牛戯」「角抵戯」「跳剣戯」「板盾舞」「儺舞」等の舞がその後も峨嵋山で行われており、唐代の峨嵋山の田道
士は「元鶴舞」、彭道士は「玄鶴舞」を創始するなど、峨嵋道教は独自の進化を遂げていく。
・唐文宗の頃、道教より仏教が盛んになりつつあった峨嵋山に、臨済宗などの僧が峨嵋山を仏教聖地として確立するために道教勢力を取り込もうとやってきた。そして峨嵋山の道教勢力の六割は臨済宗に吸収される。これにより「峨嵋通臂拳」「越女剣法(峨嵋剣仙派剣術)」「臨済気功」の3つをあわせた峨嵋派武術門派の最初の形が出来上がった。また峨嵋山で古くから行われている茶道も峨嵋派の要素として組み込まれていく。
・南宋の頃、旅の僧が峨嵋山に現れる。法名を徳源法師といい武術の達人であった。徳源法師は眉が真っ白であったため"白眉道長”とも呼ばれ、自創した拳法を「白眉拳」と称した。現在四川広東香港などで広く行われている「白眉拳」の祖であるが、少林五祖の白眉道人と混同されている場合が多く見られる。徳源法師は峨嵋山の道僧の武術家から見聞きした峨嵋武術を「峨嵋拳術」という書物にまとめた。これが峨嵋武術の詳細が文章として現れた最初である。
・南宋建炎元年(1127年)に峨嵋山の高僧・白雲禅師が「峨嵋十二桩」を創作する。白雲禅師は元は道士で、道家の練功法に舞や舞から変化したであろう武術を合わせて作り出した。「峨嵋十二桩」は練功法であるが、峨嵋武術の様々な基礎技術が含まれており現在まで受け継がれている。先に上げた「臨済気功」イコール「峨嵋十二桩」であるという説もある。
・ 明末清初の武術家で詩人史学者でもあった呉殳は「手臂録」の中に、程真如という武術家から峨嵋槍法を学んだと記している。峨嵋槍法は峨眉山の普恩禅師から伝わったものだという。外からの技術を吸収してきた峨嵋武術が、逆に中原へともたらされるようになっていた。おそらくはこの頃には三大武術流派としての体裁は出来上がっていたのではないだろうか。
・その後も峨嵋武術は変化を続ける。乾隆帝の入川に同行した武術家や清朝から追われ逃れてきた少林僧、白蓮教徒などから伝わった技が根付き、あるいは取り込まれた。
・そして現代、近年の統計によると四川省で行われている武術流派は67派あり、拳法武器の套路が1652種、練功法276種あるという。67派のうち四川由来のものが28派、少林系が27派、その他が12派である。
女流門派のイメージ
金庸の倚天屠龍記で郭襄が峨嵋派を創始し、その後女性弟子をとる門派として登場することが峨嵋派を女流門派として認識させる大きな要因なのは間違いないだろう。では、その発想はどこから来たのか。
・明代中頃の学者にして武将の唐順之「荆川先生文集」の中に「峨眉道人拳歌」という詩がある。その一文が道士でなく道姑を詠んだものではないかという説。
・清初、太平天国の指導者の一人 ・石達開の配下だった何崇政は戦いに敗れて身を隠し湛然法師と名を変えて峨眉山にやってきた。後に「峨嵋拳譜」を書き記した。「峨嵋拳譜」には当時の四川の武術門派や内容が詳細に解説されていた。
・そして峨嵋派の祖師についての文章がある。 "祖師は本来道姑であったが、後に仏門に入った。祖師は武術の研究をしており自らも使い手であったが、各武術家に教えを請うても女と侮り相手にされなかった。祖師は独自の武術を研鑽すること13年、ついに大成した。編み出した拳法を「玉女拳法」と名付け「蛾眉拳」とも呼んだ。ある時弟子達とともに峨嵋山にやってきた祖師は、拳法の名前と響きが同じ「峨嵋」を門派の名前とすることに決めた。”
・この祖師の名前も時代もわからないため実在したかどうかは不明だが、清の初めには峨嵋派が女流門派であるイメージがあったことは確かだ。

…この後、峨嵋派などの多数の武術門派のことを資料に書いたのを説明したわけですが、きりが無くなるので略します(^^;
ここでナニ陛下から岡崎先生にナニ族武術秘伝書「無威出手」が伝授される!!しかし、口訣をあわせないと使いこなすことは出来ないため、その実態がナニ陛下により披露されるのは最終日まで待たなければならなかった。

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麻婆豆腐です。本場の麻婆豆腐は「辣」より「麻」がきいているというのは知っていましたが、口の中どころか口のまわりも全部しびれて、辛さとかどうでもいいくらいの「麻」とは思いませんでした(^^;
この日の夕食でも、この後の食事でもご飯やチャーハンが最初に出てくることが多いのは、麻婆豆腐を上に乗せて痺れや辛さを緩和させつつ食べるためのようです。
また辛いものばかりでなく、甘めのものや野菜などが合間に出され口を休める工夫をしています。
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デザートは龍っぽくしているみたいだがうつむき加減(^^;

ホテルに戻り売店を覗きに行くと、やはりパンダグッズが目立つ。川劇の変面人形などもあった。
ここでは4日目と5日目も泊まるので、買い物はその時にすることにして部屋に戻った。
こうして四川武侠ツアーの一日目が怒涛のように終わった。

続く
ラベル:武侠 武侠ツアー
posted by 八雲慶次郎 at 21:48| 兵庫 ☁| Comment(0) | 武侠 | 更新情報をチェックする
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