朝食に来たのが少し早く、主食がほとんど出ていなかったが、後で饅頭を食べた。
2012年武当山武侠ツアーマップ
http://goo.gl/maps/JbBYg
8月25日
襄陽市は2年ほど前までは襄樊市という名前だった。襄樊は、漢江をはさんだ両岸に襄陽城と樊城があったことからつけられたものだ。
古くは楚の地だったこのあたり、秦の始皇帝の父・荘襄王の諱が子楚のため「荊」と改称され、その後は荊州の一部となる。三国志演義では、主要な舞台となっている。
関羽が敗れて討たれることとなった樊城の戦いや、後のモンゴル・南宋戦争で南宋にとって国土防衛の最重要拠点として激しい戦いにさらされている。
ホテルを出た一行は、近代的な市街地を通って襄陽古城へと向かう。途中大きな孔明像が立つ諸葛亮文化広場の横を通った。

今は市の中心街となっている樊城区を抜け、漢江にかかる橋をわたって川沿いに進むと城壁があらわれ、バスはその北の門の前で止まった。

臨漢門
襄陽城は、城壁の高さが7~11m、城壁の周囲は7322mにもなる。南に小さな山があるほかは平坦な土地だが、漢江と周囲に巡らせた堀が堅固な守りとなっている。



城壁の上に出て見渡すと、三国志などもいいが神雕侠侶などのシーンを思い浮かべる。郭靖黄蓉が最後までここでモンゴル軍と戦ったのか、と思うのは中国人も同じようで「郭靖黄蓉像」をここに作ろう!という話が持ち上がったようだが、税金を100万元使って作っていいものかとの批判を受けて頓挫している。
実際のモンゴル軍との戦いでは、襄陽城は孤立させられ、陥落した樊城から新兵器の「回回砲」による攻撃により降伏することになる。
一行は城壁を西に進み、北西角の「夫人城」とよばれるところにきた。ガイドの邱チャンの話によると、東晋の朱序の母・韓夫人が攻め寄せた前秦の軍を城の女性たちを率いて撃退したことから名前がついたそうだ。
五胡十六国の五胡のひとつ前秦の符堅は華北を制し、南の東晋を攻めようとしていた。統一国家の建設を目指していたが、頼みの軍師・王猛を失い、その遺言を無視して襄陽を落とし東晋の朱序を配下にするものの、後に裏切られ軍は大敗。前秦は急速に衰退する。
ちょっとのんびりし過ぎではと感じたところで、もとの城門まで戻る。簡単な展示を見てから襄陽古城の中心へと散策。集合写真や見つけた犬をカメラで追っているうちに古城観光終了ww
城壁でゆっくりしすぎたせいか、もとからそんなもんだったか、約1時間の観光でバスへと乗り込んだ。
バスは再び漢江をこえて孔明像を横切り北へ。襄陽市のとなり十堰市にある武当山へは160km2時間半の道のりだ。このあたりは一面の米、とうもろこしの穀倉地帯。
高速道路に入ると時折モニュメントが見られた。



土地柄三国志を題材にしたようなのが多いみたいだ。高速道の分岐ごとか県境などに立っているように思う。
1時間ほどして鐘崗サービスエリアで休憩。売っているものは代わり映えしないのでパス。
さらに1時間走り十堰市に入る。

丹江口ダムの人造湖である太極湖が見えてきた。中国南方の水を北方に送り慢性的な水不足を解消させようという「南水北調」計画の起点のひとつがここだ。
丹江口ダムは建設時に約40万人の住民が立ち退きにあった。さらに「南水北調」計画を進めるため水位を上げる必要があり、周辺の拡大工事が続く。武当山の古建築群のひとつ遇真宮も、このままでは水没するため嵩上げ工事に入っていた。移築するのではなく、そのままの場所で15mも高くするという。中国でも初めての試みなのでTV特集が組まれるほどだ。
600年前、明の皇帝の指示で武当山に壮麗な建築群が建てられた時、北京から材料が武当山頂上まで運ばれ金殿が組み上げられた。現在、北京に水を送るため武当山の麓の住民が立ち退かされる。張三豊は、顔をしかめているかもしれない。

武当山のモニュメントは、きっと張三豊だろう。
今回の旅の目的地・武当山にいよいよ入る。高速道路の料金所を出ようとする時、我々のバスをあるものが襲った!
次回 武当派入門 ご期待下さい!